城下北部

城下北部地図

 城下中心「芭蕉の辻」から奥州街道は北に東昌寺まで直進する幹線道路であった。南から国分町,二日町,北鍛冶町,通町と続き,右折して堤町に通じた。藩政時代は北九番町以北は足軽が,以南は畳職人,大工,瓦職人,左官などの職人が住むと共に,大通り筋要路として多くの旅籠や商店も並び,街道の往来で賑わった。明治になって北端には青葉神社が置かれ,昭和57年の道路愛称募集により,現在は北四番丁以北を青葉神社通りと呼ぶ。古い町並みが今に残り,春5月の青葉神社祭りには神社を起点に神輿が出立する町である。

041 神子神社 Miko jinja
2006.07.08

神子神社

 昔,この地に住んでいたという朝日神子を祀る。社前に大きく「聖徳太子」と彫られた石碑がある。文政13年(1830)太子講とも刻まれ,その当時からあったものと推察できる。現在の住居表示以前,この付近は神子町という地名であった。

✽ 所在地:青葉区木町8-4,主祭神:神子朝日女之霊

 

見過ごしてしまいそうなくらい小さなお社。でも新しいし,きちんと整備されている。どうやって維持されているんだろう?

藤巴 104 春日神社 Kasuga jinja
2007.02.03

 凡そ八百余年の昔,櫓町の辺りに柳清水と云う湧泉が有り(後に仙台三名泉の一つとなる)柳の木の傍らに奈良春日大社の御分神を祀る社があった。文治年間(1185~1189)源義経公が道中の折に柳の木に駒を繋ぎ参詣をなされた伝説は駒繋ぎの柳と共に後世の語り草となった。以来星移り年替り幾百星霜,国分氏より伊達氏の城下となり真言宗定禅寺の門徒で立町1丁目青山照光院別当の預かりとなりしが安永5年(1776)4月17日の大火に悉く焼失した。以後,北材木町近辺に住む氏子等の請願に依り当地に社殿を建立し安永9年(1780)3月15日に遷座された。幕末明治大正昭和となり昭和20年(1945)7月9日の空襲により歴史ある建物もすべて灰燼に帰し終戦となった。但し再度の災禍にも拘わらず御神体は崇敬者によって守られて八百年の伝統をこの度再度奥殿に祀る事が出来た事は誠に幸いな事である。漸く終戦の混乱も戦後十有余年にして収まって人心も泰平となり町内外の信仰篤き氏子篤志家の努力によって昭和34年(1959)10月に現社殿が落成し今後町内はもとより万民の守護神として崇められる事になった。(社前春日神社縁起説明板 西暦補記)

✽ 所在地:青葉区春日町8-3,主祭神:天児屋根命,比売神,武甕槌命,経津主命,例祭:6月9日

 

マンションの谷間にあっても目立つ神社。春日町とは戦後の住居表示ですが,この神社に対する地元の想いが伝わる感じです。

久我竜胆 五七桐 162 龍川山全玖院 Zenkyuin
2007.05.03

全玖院入口
全玖院山門扁額
山門扁額

 曹洞宗。輪王寺の末寺。元和元年(1615)開山。当初は現広瀬橋付近にあったというが移転時期等は不明。明治21年(1888)隣接の高福寺を合併している。

✽ 所在地:青葉区通町1丁目2-5,本尊:釈迦牟尼仏


全玖院本堂

白い袖塀が付いた重厚な山門と松が印象的で広い門前広場。綺麗に手入れがなされています。

丸に三つ鱗 163 喜福山玄光庵 Genkoan
2007.05.03

玄光庵東入口

 曹洞宗。龍泉院の末寺。青葉城築城以前,青葉山に龍川院の別院「玄光房」としてあった。慶長5年(1600)青葉城造営に際して独立し,玄光庵として当地に移転した。この時,本坊の龍川院は新寺に移転して龍泉院となり,もう一つの別院「大満房」も経ヶ峯に大満寺として独立移転なった。玄光庵本堂内の寿老人像は仙台七福神の一つである。

✽ 所在地:青葉区通町1丁目3-16,本尊:釈迦牟尼仏


玄光庵南山門
南山門

境内はまさに改装整備中のようで本堂も含めて新しそうです。山門は南側にあり,全玖院と並んでいます。東の通町側からの入口が正門でしょうか。仁王様が守っています。こちらは北側の熊野神社と並んでいます。

玄光庵本堂扁額
本堂扁額
玄光庵山門扁額
山門扁額

164 熊野神社 Kumano jinja
2007.05.03

熊野神社入口

 勧請の年月は不詳なれど当社伝承宝暦癸酉歳(約220余年前)(宝暦3年,西暦1753)の御縁起録によれば往古は熊野三所大神宮と称す。人皇第83代土御門天皇の御代(1199~1209)御勅宣を以って宮城郡荒巻邑総鎮守として奉祀すべき旨達せられ近郷近在の崇敬特に篤かったという。(中略)現在の社殿は享保7年(1722)に建立す。明治12年6月4日村社に列格す。(社殿掲示の熊野神社略記より)

✽ 所在地:青葉区通町1丁目3-16,主祭神:伊弉冉尊,速玉男尊,黄泉津事解男尊,例祭:9月8日

 

社殿はさすがに享保7年建立ということはないにしても基壇は古そうです。いずれにしても,鎌倉時代からここに祀られ続けている神社です。北材木町の春日神社と同時期ですね。

熊野神社社殿
熊野神社鳥居扁額
鳥居扁額
熊野神社社殿扁額
社殿扁額

165 磐上神社・雨宮神社 Iwagami jinja and Amamiya jinja
2007.05.03

磐上神社・雨宮神社

 勧請年月知るに由なしといえども元支倉通りに鎮座せる一小祠あり。住吉大明神と称せしも頽廃に至らんとせしを維新の際,磐上神社と改称し信徒協同之を再興崇敬せり。明治35年8月杉浦秀右ェ門外十名より堤通り13番地に移転の事を願い出て同年9月許可を得て移転せり。同社寺は元堤通り梅田川の畔に伊達家鉄砲組の稽古場あり。その境内に雨宮神社なる一小祠あり。荒廃に帰してあったのを沼沢与三郎等付近の篤志者と図り社殿を建築し町内鎮守となさん意向なりしが県の許可を得る事不能によって磐上神社を移し町内の鎮守とするに至れり。歴代社掌は三浦新四郎,庄司忠助等奉仕せり。雨宮神社に於いては往昔源義経奥州下向の砌(みぎり),偶々この地を過ぎて神を祀りこれを雨宮神社と称せりという伝説あり。(境内説明板)

✽ 所在地:堤通雨宮町1-1,主祭神:表筒男神,中筒男神,底筒男神,例祭:5月6日

境内説明板の文脈ではよくわかりませんが,どうも同時期に両神社それぞれの再興が県に願い出され,磐上神社は許可を得ましたが,雨宮神社は元々一小祠であったため新神社創建と見なされ不許可になったようです。社殿は許可前に雨宮神社を意図して梅田川畔に建築されましたが,許可を得た磐上神社の社殿としてこれを移し,後に合祀したようです。今は仲良く両神社名を得ています。


追記:平成27年(2015)8月15日河北新報による

現在の社殿は旧制二高北六番丁校舎(現東北大学雨宮キャンパス)に大正14年(1925)頃新築された奉安殿(天皇皇后の肖像写真と教育勅語を保管するため全国の学校に造られた)を終戦後の昭和23年(1948)頃に当社が譲り受けたもの。校舎は空襲で被災しましたが奉安殿は無事で,寄進を受けた氏子たちが丸太を使って建物を引いたとのことです。

166 榎稲荷明神 Enoki inarimyojin
2007.05.03

榎稲荷明神

 村境榎稲荷大明神は,かつては荒巻村小田原村の境にあって祀られてあり,仙台城下町が造成された時には,その入会の地となっており,かつての村境であった証拠といわれ,その後,現仙台市庁舎の東北隅に近く鎮座致しが,昭和20年7月戦災のため焼失いたしました。御神体は,大きな榎の下にあり無事でした。今般二日町5番のチビッコ広場に遷座致しました。(境内由緒碑)

✽ 所在地:青葉区二日町5-7,主祭神:宇迦之御魂神

 

市役所東北隅というと,今,銀行ATMがある辺りでしょうか。現在は市役所から近くの小さなチビッコ広場の中にあります。

終戦後から町内会有志の奉賛会で祭礼を執り行っているそうです。当HPをご覧になった方から情報を頂きました。('07.08.08)

405 柏木1丁目小社 Kashiwagi1 shosha
2010.10.17

柏木1丁目小社

✽ 所在地:青葉区柏木1丁目2-12

みやぎ生協柏木店のすぐ裏手。こんな街中にも社が祀られていました。当HP読者情報です。というか,もう2年半も前に情報を頂いていたのに,今頃まで確認に行きませんでした。怠け者です。ごめんなさい。

植樹の手入れや草刈りなど境内は綺麗に管理されています。場所柄,掲示板が被っているのは仕方ないですね。