榴岡・小田原

榴岡・小田原地図

 とりつなげ玉田横野の放れ駒 つつじが岡にあせみ咲くなり(源俊頼(1055~1129)/散木奇歌集)。 現在の榴岡公園付近一帯はその昔はツツジの名所であり,玉田横野と共に古来から歌枕として有名であった。ここに元禄8年(1695)4代藩主綱村が生母・三沢初子の冥福を祈り釈迦堂を建立。周りに桜,松,楓など千余株を交えて植え,馬場や弓場も置き四民(士農工商)憩いの場所とした。また,宮町・東六番丁から東,鉄砲町の北方面はかつての小田原村である。仙台開府当時は玉田横野から連なる田園地帯で国分小俵と呼ばれた。延宝年間(1673~1681)の仙台城下第3次拡張により小田原八町が割り出された。近年まで国道45号以南は区画整理事業が進められてきて,街の様子も大きく変わりつつある。

日蓮宗橘 091 光明山孝勝寺 Koshoji
2007.01.13

考勝寺参道
考勝寺参道

 日蓮宗。永仁3年(1295)日蓮の直弟である日門が「大仙寺」として開山した古刹。日蓮宗東北本山。仙台藩一門格寺院。伊達政宗が出陣のたびに戦勝を祈願し勝利を収めたことから, 命により寺号を「全勝寺」とした。その後,2代忠宗夫人振姫が深く帰依し,寛永19年(1642)振姫養母英勝院の菩提寺として寺号を「善勝寺」とした。更に,萬治2年(1659)に振姫が亡くなった際,3代綱宗が孝勝院の法名を贈り,当寺に埋葬。寺号を「孝勝寺」と改めて現在に至る。振姫や4代綱村の生母三沢初子の信仰を受け寺勢大いに振い,城下中心の柳町から真っ直ぐ東の突き当たりとなる門前は孝勝寺通と呼ばれ賑わった。堂宇はしばしば大火で焼失し,その度に再建。更に昭和35年(1960)放火により全焼。その後,順次復興された。 政宗寄進の不動尊像,綱村寄進の二天王像,振姫の木像や初子の石像などがある。三沢初子の御持佛である釈迦像を祀り元禄8年(1695)現榴岡公園に建立された釈迦堂が昭和48年(1973)県立図書館建設のため境内に移築されている。

✽ 所在地:宮城野区榴岡4丁目11-11,本尊:十界大曼荼羅

山門に続く長い参道は「孝勝寺通」。参道途中から法輪院,妙音院の2寺にも分岐。創建当初は孝勝寺の塔頭だった寺です。参道奥に孝勝寺山門。3間1戸の薬医門。先に五重塔が見えます。

孝勝寺本堂

大きなお寺。堂宇は皆比較的新しくはありますが,「政宗の仙台」を遡ること300年の昔からここにあったお寺。感慨深いです。本堂も文字通り大きい。昭和57年(1982)再建。

孝勝寺本堂扁額
本堂扁額 2018.4.16
孝勝寺山門扁額
山門扁額 2018.4.16

考勝寺山門

山門も豪壮。扁額「本山孝勝寺」の文字が誇らしい。現在では,末寺は全て独立していて本寺末寺の関係はないようです。 五重塔は平成14年(2002)に建立されました。

考勝寺五重塔

考勝寺釈迦堂
釈迦堂 2018.4.16撮影

綱村公の母への想いが伝わる釈迦堂。移築が昭和の火災後でよかった。

光明稲荷大善神社
光明稲荷大善神社 山門の守り神 2010.10.29撮影

孝勝寺三沢初子像
三沢初子像

能がありませんが,釈迦堂の説明板を模写してみました。

釈迦堂(仙台市登録有形文化財・平成7年9月5日指定)は4代藩主伊達綱村が生母三沢初子の冥福を祈るため, 母の持仏である釈迦仏を祀って元禄8年(1695)に建てられた持仏堂である。三間四方の正方形で,前面に一間の向背を付ける。 現在,軒,軸部など黒漆を主にした彩色が施されているが,もとは素木造であったといわれる。屋根は,宝形造,瀬戸焼の本瓦葺であったが,現在は本瓦葺形銅板葺に替わった。 内部の須弥壇上に厨子を備え,釈迦像を安置している。もと榴ヶ岡にあり,境内には釈迦堂のほか,二天門,鐘楼が置かれ,周囲には枝垂桜が多数植えられていた。 公園の桜はその名残である。昭和48年(1973)宮城県図書館(現在の宮城県公文書館)が建設されるにあたり,この地に移転したが, 堂建立の趣旨を綴った「釈迦堂碑」は現在も宮城県公文書館前にある。


平成30年(2018)5月21日訪問 政岡墓所

政岡墓所入口
政岡墓所入口

✽ 所在地:宮城野区榴岡5丁目4

 孝勝寺から東に約200m,仙台サンプラザ西隣にある。孝勝寺の飛地で同寺管理。伊達2代忠宗正室の振姫,3代綱宗側室で4代綱村生母の三沢初子,4代綱村正室の仙姫の墓がある。仙姫の墓は昭和35年万寿寺からの改葬。当墓所にはかつて手前に振姫,奥に三沢初子の御廟があった。本殿・唐門・拝殿を備えた漆塗の豪華な御廟だったが,明治6年に伊達家が仏式から神道祭祀に替えた際に解体された。これには明治2年に薩長により破却させられたとの情報も。墓石は明治12年建立。三沢初子の御霊屋唐門だけが新寺の成覚寺に移築されている。 政岡の名は「伽羅先代萩」(めいぼくせんだいはぎ,江戸時代の浄瑠璃・歌舞伎作品)の登場人物に由来する。同作品は伊達騒動が題材で,政岡の登場するクライマックスの件は次のようなもの。

 政岡は忠臣伊達安芸の妹で幼君亀千代の乳母。実子千松(せんまつ)と共に主君を育てていた。幼君を逆臣たちから守るため,病気と称して男を近づけず,毒殺を恐れて食事も手ずから調理した。そこに逆臣方の栄御前(老中の奥方)と八汐(原田甲斐の妹)が訪ねて来て菓子を贈り物として亀千代に差し出す。毒入りか?しかし老中奥方からの贈り物を無下にはできない。あわやというところ,千松が駆け込んで来てその菓子を手づかみで食べる。毒に当たって苦しむ千松であったが,苦しみの中でも残りを蹴飛ばして幼君毒殺は未遂に終わる。千松は日頃からの母の教えどおり命を賭してお役目を果たしたのである。発覚を恐れた八汐は千松の無礼を咎めるとして懐中の刀を千松ののどに突き立て殺してしまうが,政岡は平然として幼い主君のそばに付き守り通した。皆がいなくなった後,泣き崩れる政岡。そこに再び現れた八汐に斬りかかられるが,返り討ちにして息子の仇を返したのであった。

 と,いうもの。政岡は典型的な忠義の女性として人気を博した。現在では架空人物説が一般的だが,三沢初子が政岡のモデルであるとする説も広く知られており,政岡墓所は1970年代までは定期観光バスも停まる仙台の名所であった。

 4代綱村は2歳で家督を継ぎ,伊達騒動の渦中で実際にも2度の毒殺未遂事件に遭っている。伽羅先代萩は架空のお話としても,過酷な危難の中で亀千代にとって生母初子の存在は大きかっただろう。初子は伽藍の香木で彫られた釈迦像を自らの髷の中に納めて亀千代の除災招福を祈願したという。亀千代は寛文9年(1669)元服し綱基と名乗り,寛文11年(1671)寛文事件決着により13歳で後見を置かず藩主として執政した。この時,初子は髷の中の護持仏を綱村の守り本尊として与えたという。後に綱村は榴ヶ岡に釈迦堂を建立してこれを安置した。延宝5年(1677)正月,綱基19歳のとき,名を綱村と改めた。4月に結婚,時の老中稲葉氏から仙姫を正室に迎えたのであった。

政岡墓所振姫の墓
振姫の墓

 

墓所入口から一番近い所に振姫の墓がある。

2代藩主忠宗の正室,振姫は姫路城主池田輝政の娘で,母は徳川家康の次女・督姫(とくひめ)。家康の孫にあたる。慶長12年(1607)4月生まれ。家康には同年生まれで,家康最後の子となった五女市姫がいた。母はお梶の方(英勝院)。家康は成立間もない幕府盤石化のため,外様中最大勢力であった伊達との婚姻を望み,生後1ヶ月の市姫を伊達忠宗と婚約させる。しかし,慶長15年(1610)市姫が4歳で急死してしまったため,同じ慶長12年(1607)生まれの孫,振姫を忠宗と婚約させたのである。振姫は元和3年(1617)10月2代将軍徳川秀忠の養女となり,12月に忠宗に輿入れした。万治2年(1659)53歳で死去。

政岡墓所仙姫の墓
仙姫の墓
政岡墓所初子の墓
初子の墓

 墓所中央部には仙姫の墓がある。稲葉氏仙姫は小田原城主稲葉正則の娘で,4代藩主綱村の正室。宝永3年(1706)48歳で没した。没後,萬寿寺に葬られ霊廟も造営されたが,当地と同様に明治初期に破却となり,墓も昭和35年に当地に移された。

 墓地の北端に三沢初子の墓がある。三沢初子は,出雲の国人領主で尼子氏,毛利氏に仕えた三沢氏の末裔清長の長女。寛永17年(1640)生まれ。13歳のとき父母と死別し,2代藩主伊達忠宗夫人・振姫の老女を務めていた叔母に引き取られ振姫の侍女となった。和歌を解し,容姿が美しくて心の優しい女性であったという。忠宗は子綱宗に相応しいとして,明暦元年(1655)の正月に江戸浜屋敷で二人の婚礼を執り行い綱宗の配偶とした。綱宗も初子も16歳の時であった。幕府への届け出がなされなかったため側室とされるが,綱宗は最期まで正室を迎えず,初子は事実上の正室であった。4代藩主を含め3子の母となり,貞享3年(1686)48歳で没した。

政岡墓所歌碑

墓所内通路北端,初子の墓の前に初子真筆の歌碑が建てられています。

 

「一ふしに千代をこめたる杖なれは つくともつきじ君がよはいは」

この杖にはひと節ごとに千代(=永久,仙台)の願いがこめられているのだから,杖を突くようになってもあなたの齢(よわい=寿命)は尽きることはないでしょう

和歌を解した初子ならでは。私に心得はありませんが,母の愛や願いは伝わる…ような。

 

当墓所は鍵がかかっていますが,孝勝寺に連絡すれば見学可能のようです。今回は隣接する公園から柵越しに参拝しました。写真も同様です。

日蓮宗橘 七曜 092 七面山妙音院 Myoonin
2007.01.13

妙音院

日蓮宗。萬治3年(1660)2代藩主忠宗夫人振姫(孝勝院)の一周忌に当たり孝勝寺の塔頭(たっちゅう)として建立された。

✽ 所在地:宮城野区榴岡4丁目11-10,本尊:十界曼荼羅

 

孝勝寺の参道に面して入口があります。孝勝院一周忌の塔頭は妙音,法輪,蓮香,華香,経王の五院だったそうですが, 現在までに皆独立し,そのうち三院が残っています。


妙音院本堂

平成30年(2018)4月16日再訪

 

新たに山門が新築されていました。背の高い高麗門です。大きな冠木の正面部分の中央に扁額,左右に日蓮宗橘と七曜の二つの紋が配されています。二つの家紋は改めて見ると本堂大棟にもあります。

 

七面大明神(七面天女)は法華経の守護神で,特に日蓮宗で崇敬されます。当寺の山号もそこから来ていると思われます。また,七曜紋は妙見菩薩だけでなく七面天女とも結びつけられて捉えられています。

妙音院山門
妙音院山門扁額
山門扁額

日蓮宗橘 093 身延山法輪院 Horinin
2007.01.13

日蓮宗。萬治3年(1660)2代藩主忠宗夫人振姫(孝勝院)の一周忌に当たり孝勝寺の塔頭(たっちゅう)として建立された。

✽ 所在地:宮城野区榴岡4丁目11-12

法輪院入口
法輪院鬼子母神堂
鬼子母神堂

本堂向かって右手前に大正元年(1912)廃寺となった華香院から本尊を移し祀った鬼子母神堂があります。三沢初子が信仰した尊像と伝わるそうです


法輪院本堂

平成30年(2018)4月16日再訪

法輪院本堂扁額
本堂扁額

日蓮宗橘 094 法久山蓮香院 Renkoin
2007.01.13

蓮香院

日蓮宗。萬治3年(1660)2代藩主忠宗夫人振姫(孝勝院)の一周忌に当たり孝勝寺の塔頭(たっちゅう)として建立された。

✽ 所在地:宮城野区榴岡4丁目11-15

 

門が閉まっていましたので入るのは遠慮しました。

久我竜胆 五七桐 096 松風山金勝寺 Kinshoji
2007.01.27

金勝寺入口

金勝寺は,永正元年(1504)5月仙台連坊小路瑞雲寺第6世中岳泉波和尚が開山となり,仙台南町に建立し,その後仙台城下町町割(伊達政宗代)の際,仙台東十番丁(天神下)の地を賜り堂宇を移転したものである。此度,仙台駅東第一土地区画整理事業により現在地に移転の指定があり早速檀信徒一丸となり多額の浄財を寄進され,昭和54年10月着工し,工期1年8ヶ月を経て本堂,庫裡,山門,鎮守堂及び墓地等の移転新築落慶をしたものである。昭和56年5月吉日(境内記念碑)

 

曹洞宗。市内連坊の瑞雲寺末寺。仙台三十三観音第13番札所。 境内本堂前に金毘羅堂,その東に天保7年(1836)の飢饉の際の供養塔がある。この飢饉の際,当寺に粥小屋が設けられ流民救済にあたったという。

✽ 所在地:宮城野区榴岡5丁目9-12,本尊:聖観音

金勝寺本堂2018
金勝寺本堂 2018.4.16
金勝寺金毘羅堂2018
金勝寺金毘羅堂 2018.4.16

順に本堂,金毘羅堂。金毘羅堂に向かって左奥に飢饉供養塔がある

金毘羅さんは航海の守り神でしたよね。このお寺との因果はどうなっているのでしょうか?

区画整理による移転前は天神下にあって久近寺,慈恩寺と肩を並べており,更にその前は南町にあったといいます。 今はすぐ北側に仙台サンプラザがあるにもかかわらず,静かな一帯です。

金勝寺山門扁額
山門扁額 2018.4.16
金勝寺本堂扁額
本堂扁額 2018.4.16

097 真照山榮明寺 Eimeiji
2007.01.27

榮明寺

浄土真宗大谷派。京都東本願寺の末寺。寛永2年(1625)開山。

✽ 所在地:宮城野区榴岡5丁目9-15,本尊:阿弥陀如来

剣梅鉢 098 榴岡天満宮 Tsutsujigaoka temmangu
2007.01.27

榴岡天満宮

 往古山城国(現在の京都)に在り,天延2年(974)平将春が陸奥国宇多郡(現在の福島県)に歓請。 その後,柴田郡川内邑(現川崎町)に遷座した。藤原基衡が守護職(1105~57)の時に刈田郡白石城で謀反があり, 鎮圧に当たった佐藤治信・小太郎親子がこの天満宮で戦勝を祈願し白石城を陥落させたという。この恩賞で治信は国分荘を,小太郎には基春という名が与えられ, 後に国分荘領主となった佐藤小太郎基春が天満宮を小田原玉手崎(現東照宮付近)に遷座した。 文永元年(1264)島津陸奥守再建。天文20年(1551)白石参河(みかわ)守宗明再興。 仙台城造営の際に境内木を用財として用いた報祭として慶長16年(1611)伊達政宗が丹塗りの社殿を造営。寛永17年(1640)2代忠宗が42厄歳に際し再造営。 慶安3年(1650)東照宮造営に際してその東隣に移った。小田原玉手崎遷座以来ここまで,現東照宮付近で度々社地を移したと思われる。 寛文7年(1667)3代綱宗が現在の榴岡に丹塗りの社殿と唐門を造営し遷座した。寛政7年(1795)落雷により唐門を残して全焼。現在の社殿はその頃の再建。 本殿は昭和46年(1971)建築。唐門の手前参道脇に嘉永2年(1849)奉納の「撫で牛」がある。境内には八幡神社などの摂社と多くの歌碑,筆塚などが並んでいる。

✽ 所在地:宮城野区榴ケ岡105-3,主祭神:菅原道真公(天満大自在天神),例祭:7月24日,25日

順に参道入口,拝殿を横から,撫で牛,境内社のひとつ八幡神社

入口は恐らく区画整理で新しく出来たのではないでしょうか?狛犬が新しそう。撫で牛。この牛を撫でればご利益があるといわれていて背が随分と磨耗しています。菅原道真公は承和12年(845)丑年生まれで牛をたいそう愛でられたとの言い伝えから天満宮では牛を使神として祀っています。

朱塗りの唐門は豪華絢爛。仙台の天満宮と言えばここです。いつも受験生やその関係者らしき人達が引きもきらない。境内の句碑・歌碑は20を越えます。


平成26年(2014)11月22日再訪

榴岡天満宮歌碑
境内境界に沿って並ぶ歌碑等。それぞれに説明書きがある。
境内社の八幡神社と妙見宮
境内社の八幡神社と妙見宮が合築で新築された

榴岡天満宮2014

鳥居扁額と唐門扁額

そして東日本大震災で大きな被害を受け修復中だった本体社殿が復旧なったようです。紅葉真っ盛りの中,社殿内部では七五三の儀式も行われていました。


月影杏葉 徳川葵 099 正定山願行寺 Gangyoji
2007.01.27

願行寺山門扁額
山門扁額 2018.4.16

浄土宗。正雲寺の末寺。後陽成天皇の慶長年中(1596~1611)開山。仙台三回向寺の一つ。

✽ 所在地:宮城野区榴岡3丁目11-22,院号:本光院

 

今は近年の区画整理で墓地が移転して寺地も整然と整備されています。

願行寺山門
願行寺本堂

100 勝光山徳泉寺 Tokusenji
2007.01.27

徳泉寺山門

浄土真宗大谷派。貞享3年(1686)開山。

✽ 所在地:宮城野区榴岡3丁目10-3

徳泉寺山門扁額
山門扁額 2018.4.16

徳泉寺本堂
徳泉寺本堂扁額
本堂扁額 2018.4.16

当寺には金勝寺とともに天保7年(1836)の飢饉の際に粥小屋が設けられ,流民救済が行われたといいます。


月影杏葉 101 喜光山慈恩寺 Jionji
2007.01.27

浄土宗。愚鈍院末寺。後陽成天皇の慶長年中(1596~1611)呑茶和尚の隠居寺として開山。 観音堂は聖観音を祀り,仙台三十三観音第12番札所となっている。

✽ 所在地:宮城野区榴岡5丁目12-2,院号:観照院,本尊:阿弥陀如来

慈恩寺本堂
慈恩寺観音堂
観音堂

観音堂は西側から入ってすぐ左にあります。区画整理前は東十番丁天神下にあり,それ以前は田町にあったようです。本堂は一見大きい民家のよう。その理由は自らのHPに書かれてありました。参照あれ。

月影杏葉 徳川葵 102 正定山久近寺 Kugonji
2007.01.27

久近寺

浄土宗。京都知恩院の末寺。慶長年中(1596~1615)の開山。

✽ 所在地:宮城野区榴岡3丁目10-10,院号:随願院

 

仙台駅東口のメインストリート「宮城野通」に面する大きなお寺です。区画整理による移転前は慈恩寺や願行寺とともに東十番丁天神下にあったようです。なんと山号が願行寺と同じです。宗派も同じで近縁関係でしょうか?

久近寺山門扁額
山門扁額 2018.4.16

花菱 103 仏光山見瑞寺 Kenzuiji
2007.01.27

浄土真宗。京都東本願寺の末寺。天正年中(1573~92)松森村に開山。

✽ 所在地:宮城野区榴岡3丁目8-30

 

宮城野通沿いに仙台駅に一番近いお寺です。このお寺も大きい。 仙台への移転時期は調べきれていませんが,区画整理による移転前は東九番丁にあったようです。

見瑞寺本堂扁額
本堂扁額 2018.4.16
見瑞寺山門

見瑞寺本堂
見瑞寺歌碑
マンジュシャゲの歌碑

云われは分かりませんが入口近くに綺麗な歌碑がありました


菊輪に右三つ巴 148 鹽竈神社 Shiogama jinja
2007.04.14

鹽竈神社
鹽竈神社鳥居扁額

寛文12年(1672)4代綱村は塩釜の塩竈神社改築にあたり,御神体を東六番丁(現仙台駅構内)高福院境内に仮宮を設け安置した。 延宝8年(1680)塩竈神社完成により御神体は塩釜に戻されたが,町内氏子がその仮宮に塩土老翁神(しおつちのおじのおきなのかみ)を迎え祀った。 明治20年(1887)東北本線開通に伴い高福院は敷地が仙台駅となり満福寺(荒町)に合祀されたため,町内の氏子有志が東六番丁を挟んで東側にすでにあった三吉神社の隣接地を買い求めて遷祀。更に平成14年(2002)2月区画整理事業により現在地に再築された。


✽ 所在地:宮城野区榴岡2丁目2-22,主祭神:塩土老翁神,例祭:10月10日

三吉神社
三吉神社
鹽竈神社と三吉神社
左が鹽竈神社 右に三吉神社

境内にある三吉神社はいつごろから当地にあるのかは分かっていません。今は両神社が一体化していますが,顔になっているのは鹽竈神社のようです。 初恋成就にも霊験があるということで,門前の道路は「初恋通り」との表示があります。仙台駅から一番近い神社です。


176 矢先神社 Yasaki jinja
2007.06.13

天平年中(729~749)の創建の古社ともいうが古記録焼失のため由緒不詳。承応2年(1653)2代忠宗公が榴岡で弓の指南役屋崎隼人の射を見てその百発百中に驚き,二十人町弓組の矢先守護を願い,その矢と屋崎にあやかって矢崎明神を創建。以後,二十人町に住む弓組足軽たちの守り神として崇敬された。明治10年(1877)5月無格社神社認可。明治23(1890)年4月二十人町内で移転したが同31年(1898)3月31日夜失火全焼,同年8月新築,社名を矢先神社と改めた。昭和39~40年(1965)RC改築。(宮城県神社庁HP要約)

更に区画整理事業により平成25年までに移転新築されている。当地二十人町は二十人衆と呼ばれた弓鉄砲組が置かれたことからその名がある。

✽ 所在地:宮城野区二十人町306-20,主祭神:天照皇大神,倉稲魂命,例祭:5月5日

矢先神社入口2007
矢先神社入口2007
矢先神社社殿2007
矢先神社社殿2007

城下の弓組の中でも二十人衆のみがこの境内で城に向かっての弓の稽古が許されていたそうです。



平成25年(2013)5月18日再訪


矢先神社2013
矢先神社2013

区画整理で新築移転しました。二十人町の氏神として位置は殆ど同じ場所のようです。 ただ,二十人町からではなく宮沢根白石線から郵便局の脇を入ります。以前より少し大きくなったでしょうか。綺麗な社殿です。とても良くなりました。社殿扁額には大正11年(1922)奉納の記載があります。鳥居は以前のものと同じです。

五七桐 177 和光神社 Wako jinja
2007.06.13

和光神社入口2007
和光神社入口2007

鉄砲町は藩政時代に鉄砲足軽組が置かれた町で,総勢138人の足軽が住んだ。当社は元和2年(1616)鉄砲町の足軽たちが大阪夏の陣に戦功をあげ, 凱旋の後に勧請し町内の守り神とした神社である。当初は和光明神と呼ばれていたが,明治維新後,和光神社に改称。昭和2年7月社殿新築。更に区画整理事業により平成25年までに移転されている。

✽ 所在地:宮城野区鉄砲町中6-7,主祭神:神武天皇,例祭:5月3日

和光神社2007
和光神社社殿扁額
社殿扁額

社殿扁額の「光」の所が見かけない字になっていて,これが光の本字だそうです。鉄砲足軽の鎮守らしい気がします。火縄銃!
 また,「和」の辺と造りが逆です。こういう書き方もあるのでしょうか。よくわかりません。「味」があると言ったら洒落になってしまいますが…。



平成25年(2013)5月18日再訪

和光神社入口2013
和光神社入口2013
和光神社境内2013
和光神社境内2013

和光神社鳥居扁額
鳥居扁額 2018.4.16

ここも矢先神社と同様に区画整理で移転しました。位置は多少西の方に動いたでしょうか。 鉄砲町の氏神ですが,鉄砲町から直接ではなく南北方向の街路から東向きに入るようになりました。社殿は以前のものを移築修繕したようです。鳥居は新しくなりました。


178 小田原八幡神社 Odawara hachimanjinja
2007.06.13

小田原八幡神社

康平年中(1058~1064)栗原郡迫の郷士・長部民之亟諸能の氏神として栗原郡迫郷長部荘に勧請され,諸能没落後その長子若狭之助諸門が浪人となり, 当地に移住する際に遷座したと伝わる。その後,城下建設に伴い当地に弓足軽36軒が置かれ小田原弓ノ町と呼ばれるに至って, 武家の氏神八幡大神を祀る神社として氏子の崇敬を受けた。境内では弓足軽たちの稽古が大々的に行われていたという。 文化4年(1807)火災により堂宇記録一切を焼失したが,町内鎮守として再興されたという。 明治に至り荒廃したが,昭和4年(1929)再建。平成13年(2001)区画整理により現在地に改築移転した。

✽ 所在地:宮城野区小田原弓ノ町102-9,主祭神:応神天皇,例祭:9月15日

神社入口,参道,境内社と神輿殿 いずれも2010.10.29撮影

3年経つと以前の写真と比べて背景のビルが増えてます。神輿殿と境内社が前後に並んでいます。鳥居まで付いた境内社が奥の陰にあるのは,多分,神輿の出し入れの都合だと思います。

小田原八幡神社社殿扁額
社殿扁額

区画整理による移転前は今より東に60mの位置にあったとのことです。以前の所在地は今は広い道路になっている所です。

弓ノ町は城下に3つ置かれました。他は上弓ノ町,新弓ノ町で,中でも小田原が最初の弓ノ町だそうです。 各弓ノ町に大安寺御弓八幡(石仏),新弓ノ町八幡神社と八幡信仰がありました。神社にも栄枯盛衰があるようですが,当社は危機のたびに地域氏子の力で再興されてきたようです。

179 籠石神社 Kagoishi jinja
2007.06.13

籠石神社

由緒等わかりません。小田原の住宅地の中にあります。

✽ 所在地:宮城野区小田原3丁目5

403 笠松神社 Kasamatsu jinja
2010.10.17

笠松神社

こちらも由緒等わかりません。常盤木学院のすぐ近く,住宅地奥まったところにあります。普通の地図に普通に記載されていますが,社名額も鳥居すらもありません。 でも建築様式はやっぱり神社ですね。

✽ 所在地:青葉区小田原4丁目2-31

404 金神明神 Kanagami myojin
2010.10.17

金神明神
金神明神円形2010

ここは由緒等不明の3連発になってしまいました。周囲はまさに区画整理で宅地整備真っ最中です。でもちゃんとお供え物はありました。


✽ 所在地:宮城野区鉄砲町中3-10

読者情報を頂きました。今は三井リパークの駐車場の中にあり,説明書きも置かれているとのこと。それによると当社は岩沼の金蛇水神社の分霊だそうです。 情報ありがとうございました。整地も終わり,社も安堵されたようでよかったですね。(2012.04.30記)


平成25年(2013)5月18日再訪

金神明神社殿扁額

社殿自体は向きも含めて全く変わっていません。周囲が綺麗になり,区画整理という激動にも安泰でした。

金神明神2013
金神明神2013

443 車延命地蔵尊堂 Kuruma enmeijizosondo
2018.04.16

東七番丁の北端,二十人町から北に花京院通(現国道45号)までの間を車町といった。かつてこの町の東北端に「車地蔵」と呼ばれる小堂があった。そこは現在新寺にある東秀院が寛永2年(1625)開山当時あった所で,その境内であった。かつての車町には車大工が住んだことから,車地蔵は地域の信仰の対象となり,東秀院移転後も車町に残った。宝永5年(1708)城下の大火により焼失するも安政5年(1859)再建。以降も地域により祭事が執り行われてきた。昭和63年(1988)に始まった仙台駅東第二土地区画整理事業により岩手県陸前高田市の長谷山観音寺に仮遷宮したが,平成27年(2015)5月,地蔵尊堂落慶により当地に正遷宮となった。(現地由来説明板・宮城野の散歩手帖)

車延命地蔵尊堂
車延命地蔵尊堂扁額

✽ 所在地:宮城野区小田原山本丁,本尊:子育て延命地蔵

地域の交流の場である駅東交流センターの敷地内に造営されました。後ろに見えているのはアンパンマン子供ミュージアム。