高砂その2

鶴巻・岡田

鶴巻・岡田地図

 鶴巻付近は仙台藩主がよく鶴狩りを行った所で,所謂お鳥見役が置かれて狩場保護や鳥類飼育が行われたという。 また,寛文10年(1670)から13年(1673)にかけて行われた流路付け替え工事により,それまで岩切鶴巻から福室の北を流れ七ヶ浜に注いでいた七北田川が 現在の流れになると城下に運ばれる米輸送の中継地となり,鶴巻御蔵と呼ばれる蔵が置かれ曳舟の積み替えが行われた。 福室の一部ではあるが,この七北田川流路変更により北福室と分断され,南福室邑として明和6年(1769)には独立した肝入りが立てられたという。
 鶴巻の東は岡田である。現在も豊かな農村地帯である岡田は,その地名が示すように宮城野から太平洋に至る広大な平野にあって, 周辺が概して広く低湿地である中,比較的小高く水害に強いことから,早くから開墾された地である。 荒井付近まで達したという慶長16年(1611)12月の地震による大津波では深刻な被害を受けたが, 元和(1615~)から寛永年代(~1644)にかけて行われた仙台藩の新田開墾奨励によって再生した。
 福室・岡田ともに明治22年(1889)町村制により田子・中野・蒲生と高砂村となり,更に昭和16年(1941)仙台市に編入された。

317 熊野神社 Kumano jinja
2008.03.22

熊野神社

勧請時期等不祥。寛政2年(1790)再建。旧称は熊野大権現であったが,明治2年現社号に改称している。

✽ 所在地:宮城野区鶴巻1丁目9-6,主祭神:早玉男神,事解男神,伊邪奈美神,例祭:春4月15日,秋9月8日

熊野神社入口
熊野神社社殿内扁額
社殿内扁額

鶴巻の住宅街の中にあります。かつて現高砂行政サービスセンター(福田町)南東にあり,洪水で現在地に流れ着いたとの説もあるようです。


324 神明社 Shimmeisha
2008.05.03

✽ 所在地:宮城野区岡田寺袋浦48,主祭神:天照皇大神(推測)

由緒等わかりません。地図と掲額にて神明社であることがわかるのみです。本通りに面して岡田郵便局の東,駐在所の向かいにあります。 鳥居は堅固ですが,社殿は傷みが激しくなっています。明治44年(1911)賀茂皇神社に合祀されたようです。

神明社全景
神明社

大震災後,鳥居も社殿もありません。(2012.9記)


326 石神神社 Ishigami jinja
2008.05.03

石神神社1
石神神社2

✽ 所在地:宮城野区福室田中91-2

由緒等不明ですが,堂々とした立派な社殿です。社地は整備途中でしょうか。水を湛えて田植え直前の水田地帯を背景に満開の八重桜とともに忽然と建っています。 天気もよくて,なんとものどかな日和です。地元では大石神社とも百日咳の祠とも呼ばれ,百日咳をなおす神様が祀られているそうです。 境内の神木の松の皮を煎じて飲むと百日咳によいとのことですが,今は神木らしき木は見当たりません。幼木育成中なのでしょうか。

327 住吉神社 Sumiyoshi jinja
2008.05.03

住吉神社

旧福室村鎮守。明治5年(1872)5月高砂村社。創建不詳だが住吉大明神と称しており,明治2年(1869)現社号。積年破損により延享4年(1747)再建されている。(宮城郡誌)

✽ 所在地:宮城野区福室字平柳81,主祭神:底筒男神,中筒男神,表筒男神,息長足姫神,例祭:春4月15日,秋9月8日

 

当然,延享4年以降も建替えはされていると思いますが,現在の社殿が何時の建築かわかりません。

328 松堂観音堂 Matsudo kannondo
2008.05.03

かつて北福室字松堂にあり,七北田川の洪水で当地に流れ着いたと伝わる。宮城三十三観音第十番札所。

✽ 所在地:宮城野区福室字平柳81

松堂観音堂と住吉神社
松堂観音堂と住吉神社
松堂観音堂正面
観音様の他に不動明王も祀られているようです

住吉神社と並んで建っています。 創建時期どころか「松堂」が「まつどう」なのか「しょうどう」なのかもわかりません。読みが間違っていたらご指摘下さい。

329 賀茂皇大神社 Kamokodai jinja
2008.05.03

賀茂皇大神社拝殿

嘉祥年間(848~850)慈覚大師が上岡田に来て賀茂大明神別雷神を勧請し, これをその数年前の承和年中(834~848)に岡田の南東を流れていた冠川(七北田川)の中の島に草庵を結び居住していた雪峯行者が日々礼拝祈念したと伝わる。 後年天正年中(1573~1593)には龍王院が別当職を勤め,川島賀茂明神と称した。川島明神として宮城三十三観音の第12番札所でもある。 旧岡田村の鎮守。明治5年(1872)岡田村社,後に高砂村社。明治44年(1911)岡田寺袋の神明社を合祀している。(拝殿掲示)

✽ 所在地:宮城野区岡田字明神東1,主祭神:別雷神,例祭:春4月15日,秋9月8日

 

拝殿は新しそう。由緒説明板が掲示されていますが,保護のためかビニールで包んであって,よく読めません

賀茂皇大神社入口
賀茂皇大神社本殿
本殿

賀茂皇大神社石碑群

入口左に前面道路に沿って並ぶ石碑群。川島観音の碑もあるようです。神社で観音札所というのも珍しい。まさに神仏混淆です。

330 伊達明神 Date myojin
2008.05.03

伊達明神

✽ 所在地:宮城野区福田町4丁目13

熊野神社と同様に鶴巻の住宅街の中にあります。由緒等わかりませんが,社殿内に政宗公と思われる絵が祀られていました。
地元研究誌によれば,「藩の御狩場鶴巻に近く,藩主がたびたび立ちより御下賜品もあったので,感激した住民が祠を建て崇拝したのが始まり」とのことです。

月影杏葉 徳川葵389 海見山照徳寺 Shotokuji
2009.10.12

照徳寺山門

浄土宗。岡田新浜にある。天正19年(1591)開山。新寺成覚寺の末寺。 当寺開山時の新浜は平家落人による開拓集落で26戸の集落であったと云う。 海見山の山号は藩祖伊達政宗が鷹狩りの折りに本堂で休憩したところ,寺から海が見えたので賜ったと伝わる。 山門の右手に地蔵堂がある。縁日(旧3月24日)には必ず雨が降るという言い伝えがあり「濡れ地蔵」として知られている。

✽ 所在地:宮城野区岡田浜通36,院号:慈正院

 

大震災で全壊。かろうじて本堂だけは浸水しながらも残りました。 (2012.9記)

照徳寺本堂
本堂
照徳寺地蔵堂
地蔵堂

★濡れ地蔵伝説
木製の子育て地蔵で元は中野にあったという。子供たちが親しんでよく持ち出して一緒に水浴びをさせていたが, ある時,突然の雷雨で子供たちは逃げ帰ってしまい,お地蔵さまは流されてしまった。 お地蔵さまは下流の和田新田付近で拾われ,当寺に持ち込まれ,授かりものとして以後大切にされているという。

 

この伝説では縁日に雨が降る由来まではわかりませんね。お地蔵さまも縁日くらいは昔のように子供たちと水浴びして遊びたいのでしょうか。


平成29年(2017)10月8日再訪

 

大震災で浸水しながらも残った本堂は,今は修復を終えてきれいな佇まいです。ただ,山門のあった所は基礎だけになっています。簡単には戻りませんね。

照徳寺大震災慰霊碑
大震災慰霊碑

震災後3年を前にした平成26年1月に建てられた石碑と慰霊碑。石碑には新浜集落で震災のために亡くなった63人の名前が刻まれています。

照徳寺地蔵堂跡
地蔵堂跡

濡れ地蔵がいた地蔵堂は今はありません。かつての地蔵堂の基礎の上に多くの石仏が集められています。中央奥の大きなお地蔵様は新しく建てられたように見えます。


左廻り一つ稲の丸 390 吉窪神社 Yoshikubo jinja
2009.10.12

吉窪神社入口

後鳥羽天皇の建久年中(1190~1198、鎌倉)の創祀といわれ,正一位吉窪大明神と称した。明治2年現社号。(宮城県神社庁HP)

✽ 所在地:宮城野区岡田浜通29,主祭神:豊玉姫命,倉稲魂命,例祭:4月15日

吉窪神社参道
参道

南から入る参道は独立していますが,上写真左に見えるのは照徳寺のお墓です。同一境内と言ってもいいでしょう。かつては別当関係にあったと思われます。

吉窪神社拝殿
拝殿

これが拝殿…だと思います。ここで帰ろうかと思いきや…右脇から回り込むと立派な本殿があります。本殿に直接参詣できます。


吉窪神社本殿
本殿

寺の境内を横切るような参道,古びた拝殿の陰に隠れるように不意に新しく綺麗な本殿が現れました。拝殿だけで帰らなくて良かったです。

 

大震災で拝殿は無くなってしまいましたが,本殿はかろうじて残りました。(2012.9記)


平成29年(2017)10月8日再訪

大震災で拝殿流出,本殿はかろうじて残るも半壊状態で後日撤去されました。鳥居は残っています。復興社殿は伊勢神宮のヒノキの間伐材を利用した神社庁の再建支援事業により2012.11.24竣工しました。

吉窪神社参道2017
吉窪神社参道2017
吉窪神社鳥居2017
鳥居2017

鳥居とその両隣の大樹2本はそのまま無事だったようです。社殿は同じく伊勢神宮の間伐材を使った蒲生の神明社とほぼ同じです。というか,同じ設計で全く同じ建築でしょうか。

参道脇の照徳寺墓地はほぼ復旧しているようですね。


吉窪神社2017
吉窪神社2017
吉窪神社新社殿扁額
新社殿扁額


蒲生

蒲生地図

蒲生の地名はかつて蒲がよく生い茂る湿地帯であったことに由来する。建保(1213~1219)の頃,その良質な蒲を産出するため荻袋に集落ができたのが蒲生の始まりという。 寛文13年(1673)七北田川流路付け替えと塩竃牛生から七北田川新河口までの舟入堀が完成し,新河口となった蒲生に舟溜及び米塩蔵が設けられた。 石巻・野蒜に集められた米どころ藩北部の米は舟入堀を経て一旦蒲生舟溜で下ろされ,蒲生御蔵に収納された。 城下に至る米はここから七北田川を遡り鶴巻,苦竹を経て原町御蔵に運ばれたため,蒲生舟溜・御蔵周辺は物流の重要な中継地として町を成し繁栄した(町蒲生)。 明治20年(1887)東北本線塩竃開通により物流中継機能は塩竃に移り,以降の町蒲生は半農半漁の町である。 蒲生村は明治22年(1889)町村制施行により田子,福室,中野,岡田と合わせ高砂村となり,更に昭和16年(1941)仙台市に編入された。

325 荻袋八幡神社 Ogibukuro hachimanjinja
2008.05.03

荻袋八幡神社

✽ 所在地:宮城野区蒲生荻袋39-10,主祭神:応神天皇(推測)

ここも由緒等不明です。荻袋の集落内で住宅地の中にあります。地区の氏神様として祀られているのでしょう。きれいに管理されています。
岡田の集落に囲まれてここだけが旧蒲生村です。蒲生の中でも最も早く人が住みついたといわれています。

384 大和神社 Yamato jinja
2009.10.12

大和神社入口

寛文13年(1673)蒲生領主和田織部房長は舟入堀の工事完成を期に,多賀城紅葉山の館より家従30人と共に当地に移住。 館内に氏神として京都伏見稲荷神社の分霊を勧請し祀った。和田氏は大和(奈良県)の出身なので大和神社と称した。明治になり和田新田地域の鎮守の神として寄進された。 (境内説明板:年代訂正)

✽ 所在地:宮城野区蒲生西屋敷添3

 

大震災にも耐えて残りました。

(2012.9記)

<和田新田と和田氏>
和田新田は2代藩主忠宗公の時代(寛永年間)藩の出入司をしていた初代和田因幡為頼が開墾した土地であり,(中略)城下町のような侍屋敷だった。 和田氏は1800石の領主で,為頼は(中略)東部海岸に松の植林をした。(中略) 2代織部房長は藩命により,宮城郡大代村(多賀城)から蒲生村までの御舟入堀や七北田川の付け替え,御船引堀の掘削工事を立案,寛文13年(1673)完成させた。(中略) 11代織部為泰は(中略)仙台藩の最後の国老として藩内の戊辰の役の戦後処理に当たった後,密告されて切腹した。
(境内説明板)

大和神社 11代織部為泰の慰霊碑
11代織部為泰の慰霊碑
大和神社

社殿向かって左に仙台藩最後の国老11代織部為泰の慰霊碑が建っています。為泰は明治2年(1869)に切腹したそうです。密告ということですが,時代激変時の暗い陰が垣間見えるような…。


境内説明板には冒頭,織部房長が移住したのが延宝年代(1661)と記されていましたが,この年代に初代因幡為頼が和田新田を開墾したものと思われましたので, 勝手に訂正いたしました。
舟入堀を来て蒲生で一旦蔵入りした米はやがて七北田川を遡った鶴巻で積み替えられ,そこから苦竹まで今度は舟引堀を引かれて運ばれた後, 陸路で原町御蔵まで輸送されました。舟入堀,舟引堀の両運河の工事責任者が和田織部房長です。 寛文4年(1664)から測量を開始し,延長各約5㎞の長さの運河を寛文10年(1670)に計画立案。その後わずか3年で完成させました。

丸に光琳松 385 高砂神社 Takasago jinja
2009.10.12

万治2年(1659年)江戸藩の米穀運輸のため塩釜村浦海より大代村を通り蒲生村まで堀割りの節、佐々木只太夫藩命をうけて土木の事に従事す。この地に至り泥地にて1日掘れば一夜にして埋もるという状態で困却し、成就の祈願をこの神に請うたところ、霊験により成就した。依って社殿を営んで神恩に奉謝した。その後、藩主某この地に来り地に来り地形が播州高砂浦に似ていることから社名を高砂神社と称し、地名を高砂といった。爾来本社は蒲生北方の鎮守として信仰された。明治5年1月村社に列する。近年に至り仙台新港の開設に伴い、現在の地に新殿を造営して遷し奉る。(宮城県神社庁HP)

✽ 所在地:宮城野区蒲生字町86-1,主祭神:底綿津美神,中綿津美神,表綿津美神,伊邪那岐神,伊邪那美神,例祭:4月第2日曜日

高砂神社
高砂神社鳥居扁額
鳥居扁額

高砂神社拝殿
拝殿
高砂神社本殿
本殿

万治2年(1659)はまだ舟入堀掘削前なので由緒には疑問があります。 万治2年に小祠が建立され,寛文10年(1670)の掘削工事の際にこの小祠に祈願した…という線かなぁ。(勝手)
命名した藩主も3代綱宗か4代綱村か判然としません。 当初の位置は中野高松93番地でした。仙台新港建設に伴い昭和47年10月当地に遷宮しました。 今の地も周囲は美林で,海の近さのせいか広々とした清々しい空間が感じられます。


平成25年(2013)10月14日再訪

高砂神社2013
高砂神社2013
高砂神社新社殿
新社殿
新社殿前石碑群
新社殿前の石碑群

大震災の津波で全壊流出してしまいましたが,平成23年(2011)末に仮社殿(神棚)が完成。 平成24年(2012)3月29日 兵庫県高砂市の高砂神社から小振りながらも本格的な仮本殿が贈呈され,当地に安置されました。

386 蒲生念仏田地蔵尊 GamoNembutsuda jizoson
2009.10.12

蒲生念仏田地蔵尊

中野小学校の隣にあります。地元学HPによれば,慶長16年(1611)12月の地震による大津波で岡田・蒲生が8日間海水に浸された時, 住民が東部の台地(現在の字念仏田)に集まって念仏を唱えて海水の引くことを神仏に祈念した結果,その御利益にあってようやく海水が引いたことを記念して, 念仏を唱えた当地に後代に建てられた地蔵尊のようです。

✽ 所在地:宮城野区蒲生念仏田


蒲生念仏田地蔵尊2013

平成25年(2013)10月14日再訪

 

大震災の津波で覆屋が流出。地蔵像も首が落ち,土台も崩れましたが,地元有志の会により平成25年(2013)5月までに修復され, 新覆屋も完成しました。

387 追分地蔵尊 Oiwake jizoson
2009.10.12

追分地蔵尊

✽ 所在地:宮城野区蒲生東屋敷添34

由緒等わかりません。町蒲生方面と多賀城方面への道の分岐点にあり,追分地蔵というのだそうです。

 

大震災後,覆屋も含めて残っています。(2012.9記)

388 神明社 Shimmeisha
2009.10.12

神明社入口

蒲生の神明社。慶長2年(1597)郷土の敬神家が伊勢の大廟を参拝し天照皇大神の御分霊をうつし祀ってお伊勢さまと称した。 明治維新前には南蒲生の人家の付近に鎮座したが悪疫が流行したため神威の冒涜を恐れて現在の地に遷座し南蒲生一円の守護神として尊崇をあつめてきた。 明治5年1月村社に列す。(境内説明板)

✽ 所在地:宮城野区蒲生字八郎兵衛第一の25,主祭神:天照皇大神,例祭:4月15日

 

大震災により全壊流失。鳥居も社殿もありません。(2012.9記)

神明社拝殿
拝殿
神明社 社殿全景
社殿全景

里との境目,松林の中,どこから境内なのかもわかりませんが,今日のような天気の良い日には木漏れ日が爽やか。でもちょっと野趣豊かすぎです。 潜り拝殿の奥突き当りに本殿正面が見えるようですが,小心者には入り難かったです。


平成29年(2017)10月8日再訪

神明社入口2017

大震災で本殿,幣殿,拝殿,鳥居など全て流出しましたが,伊勢神宮のヒノキの間伐材を利用した神社本庁の再建支援事業により再建されました。伊勢神宮は式年遷宮用のヒノキを育てており外部に出すことはほとんどありませんが,東日本大震災の被災神社再建のため間伐材約1,300㎥を無償提供することとし,神社本庁が自力再建の難しい神社の再建支援事業を実施しました。当社は岡田の吉窪神社と共にこの事業の対象となりました。

神明社2017
神明社扁額2017
社殿扁額

松が疎らに残る。鳥居も建物も全て流されましたが,基礎は同じものを使ったようです。拝殿幣殿があったことの証拠になりますね。隣接する海岸公園の野球場も復旧して少年野球の賑やかな歓声が戻ってきました。

西六条下り藤 437 真光山専能寺 Sennoji
2017.10.08

専能寺山門

浄土真宗本願寺派。野洲梁田郷(現在の栃木県足利市鵤木町)天台宗浄光寺の僧栄覚が浄土真宗に帰依し,東北にて修行の後,元亀元年(1570) 蒲生に浄香坊を開山。その後の天正19年(1591)専能寺を開いた。本堂は安政2年(1855)建立。平成23年(2011)3月の東日本大震災で大きく被害を受けたが,大補修により現在までにほぼ復旧した。山門は倒壊流出したため,平成28年8月新築により再建している。

✽ 所在地:宮城野区蒲生鍋沼16,本尊:阿弥陀如来

専能寺本堂
専能寺本堂扁額
本堂扁額

本堂は約160年前の建立。大震災からも無事復旧できて何よりでした。新しくなったかのように綺麗です。右の建物は門徒会館。


専能寺鐘楼
鐘楼
専能寺無量寿堂
無量寿堂 平成18年建立の合葬墓

梵鐘は昭和20年の仙台空襲で焼け出された旧制二高仏教寮の学生38名が約4か月にわたり当寺に寄宿した恩に報いて昭和47年に寄進したもの。鐘楼も同年に門徒寄進により建設されました。大震災の影響は分かりませんが,被害がなかったわけはなく,今ここにこうしてあるのも多くの人の努力の賜物と思います。これに限らず,境内全体がとても綺麗になっていて安堵です。