七北田その2

松森

松森地図

松森は泉区の最東部にあたる。鎌倉末期の正和元年(1312)国分氏5代重胤の弟政継が居住して松森姓を称したのが地名の起源であろうか。 初代胤通が国分荘33郷を得て下向してから 約400年後の慶長元年(1596)17代盛重が姉の嫁ぎ先である水戸佐竹氏のもとに出奔して国分氏は滅亡した。 松森城はその系譜の末期,天文年間(1532~1554)から国分氏の本拠地であったという。 当時の町屋は鎮守の熊野神社を中心として城址南側の山麓に沿ってあった。現在,城址は公園となり周囲は大規模な宅地化がなされている。

また,七北田川より南,小田原の北に当たる南光台はかつては松森村に属しており,昭和30年代後半に開発されるまで山林や牧場であった。 高度成長期を迎えた仙台のベッドタウンとして旭ヶ丘や黒松に次いで大規模な住宅団地として造成され,急激に増加した人口の受皿となった。

久我竜胆 五七桐359 松森山清水寺 Seisuiji
2009.04.19

清水寺本堂

曹洞宗。応仁2年(1468)京都音羽山清水寺の千手観音を勧請して松森下町地内に天台宗切登山清水寺として開基。 国分氏滅亡後荒廃したが,文禄年中(1593~1596)保寿寺第七世興山林中和尚が曹洞宗に改め再興。 寺を現在地にうつし現寺号とした。昭和4年(1929)新築,同8年(1933)火災,同9年(1934)に再建。 昭和58年から59年に本堂,庫裡,山門,方丈等新築。更に平成11年には観音堂が完成している。(境内説明板)

✽ 所在地:泉区松森字鹿島3-1

清水寺山門
清水寺観音堂
観音堂

開山の東海遠光法師が京都音羽山清水寺より千手観音像を勧請し背負っての全国行脚中,松森で急に像が重くなったので, この地に草庵を建てたのが寺の始まりとのことです。参考文献では再興は承応年中(1652~54)となっています。 国分氏滅亡(追放)が慶長元年(1596)なので,こちらの方が正しいようにも思われます。

360 熊野神社 Kumano jinja
2009.04.19

熊野神社拝殿

文久2年(1862)改の風土記書出によると松森清水寺境内に鎮座,清水寺が別当として奉仕したとある。 また,同地佐藤嘉ェ門氏蔵の「熊野宮」なる掲額に市名坂村の百姓長助が晩年孤独で死期を覚り 死後の供養に宝暦7年(1757)持高田代壱〆490文(中田で二町歩位)全部を清水寺を通して寄進する旨遺言して亡くなり, その通り実行されたことが書かれている。両資料とも結城五郎の勧請と記されているが,俗名だけであり建立時の推定は出来ない。 往古は松森・市名坂・七北田・上谷刈・小鶴の5ヶ村鎮守,藩制時代になって松森1ヶ村の鎮守となった。(境内説明板)

寛文年中(1661~1673)火災で往古の縁起神宝焼失。寛文11年(1671)再建。明治6年(1873)現社号。大正4年(1915)薬師神社を合祀。昭和13年(1938)7月後方の岩盤崩落により社殿倒潰したが翌昭和14年(1939)8月現社殿が再建され現在に至る。(宮城県神社庁HP)

✽ 所在地:泉区松森字下町1,主祭神:熊野加夫呂岐櫛御気神,大己貴神,少名彦神,例祭:旧3月15日,旧8月15日

熊野神社参道
熊野神社本殿
背後の山を登る幣殿と山に食い込む(?)本殿

午後も半ばを過ぎると西日がきつい。わりと長めの参道には鳥居が二つ。東西方向の参道で,完全に逆光になりました。


熊野神社二の鳥居
二の鳥居
熊野神社境内社
本殿向かって左,崖下に数個の石仏と境内社の愛宕神社


平成30年(2018)4月28日再訪

熊野神社拝殿扁額
拝殿扁額
熊野神社2018

381 八瀧不動神社 Yataki fudojinja
2009.07.03

かつては松森字関場山の沢(旧住所表記:場所不明)の渓谷にあった。 頭痛や眼病に霊験あらたかと云われ,団地開発に伴って昭和49年(1974)現在地に移転。この時に覆屋が建てられた。

✽ 所在地:泉区南光台南3丁目11

八瀧不動神社全景
八瀧不動神社

すぐ傍の水路はかつての沢とは異なるようです。団地造成に伴って雨水排除用に造られたと思われます。 上写真で覆屋内の左隅にある小さな丸い石碑が昔からのもの。

右三つ巴 382 友崎観音 Tomozaki kannon
2009.07.03

友崎観音遠景

✽ 所在地:泉区南光台7丁目27

由緒不詳ですが,安産・子育ての神様として昔から祀られていたと云います。 4つの石仏がならんでいますが,一番右端が友崎観音のようです。子安観音でしょうか,浮き彫りの像です。 あとの3つはいずれも馬頭観音碑です。団地造成に伴ってここにまとめられたもののようです。

友崎観音
友崎観音覆屋内

383 天ヶ澤不動明王 Amagasawa fudomyoo
2009.07.03

天ヶ澤不動明王入口
天ヶ澤不動明王

✽ 所在地:泉区南光台5丁目26-38

この不動明王も団地造成によって当地に移ったものだそうです。やはり八瀧不動と同じように渓谷にあったのでしょうか。 今,近くには天ヶ澤水路がありますが,今の社名は移転前からの呼称なのでしょうか? そうであれば,かつてはこの水系沿いにあったのかもしれません。今は住宅が並ぶ中に周囲の宅地とほぼ同様の敷地割に収まっています。

424 子安観音堂 Koyasukannondo
2014.05.06

子易観音堂
子易観音堂扁額
社殿扁額

お堂の中のご神体には宝暦1751年とあり,右側にお腹の大きい観音様,左側に子どもを抱いている観音様の石碑が祀られている。 現地点より約20m東に鎮座していたが,開発行為により移動鎮座していただいた。平成16年11月吉日(社殿前説明碑)

✽ 所在地:泉区松森太子堂


子安観音堂馬頭観音碑
馬頭観音碑

宝暦年間は西暦1751~1763年なので,その頃の建立だと思います。今はニトリなど複数の大規模小売店が集まる敷地駐車場内にあります。

 

 

境内にある馬頭観音碑,社殿ともにこじんまりとかわいらしい。一番左側の碑には天保13年(1842)の刻字がありました。

444 鹿島神社 Kashima jinja
2018.04.28

鹿島神社

✽ 所在地:泉区松陵1丁目,主祭神:武甕槌神(推測)

所在地の住居表示は松陵1丁目ではありますが,地勢的な所属は南側の鹿島地区にありそうで,県道泉塩釜線の旧道,酒のやまやの所から狭い急坂を北にジグザク登り切った頂上にあります。松陵方面からはアクセスできません。坂はホントに急で,今風の開発ではないと思います。当社の由緒等は全く分かりませんが,神社が先にあって周辺の地名がそれに準じたというのが自然な流れでしょうから,古い開発の更に以前からここにあった神社だと思います。


大沢

大沢地図

大沢は現在の仙台市にあって最北の市街地である。江戸期以降,奥州街道に沿い富谷以北に繋がる交通の要衝であった。 一村は成さずとも,封内風土記には七北田村の端郷との記載があり,戸籍法制定(明治4年)に伴う大区小区制では明治7年まで独立した区として扱われた。 現在も東北自動車道に泉ICが置かれ,国道4号沿線を中心に仙台の郊外住宅地の顔と交通の便を活かした流通商業地の顔を併せ持って賑わいを見せている。

421 金玉神社 Kingyoku jinja
2014.05.06

もと大沢大ヶ沢の丘陵中にあり,座頭神様あるいは金玉塚とも呼ばれていた。 昔,南部の国の盲人金玉が座頭の位を得るため,多額の金を用意して京へ上る途中,大沢の山道にさしかかったところ,鈴木甚八という盗賊に襲われた。 金玉は「今殺されるのは悪縁とあきらめるが,名前を聞かせてくれ」と頼み,名を聞くと「コガネダマダイタクサンニセツガイスヌシハレイボクハナハダシイヤツ」と経文を作り, 「これを朝夕に唱えて回向してくれ。もし回向しなければ七代まで祟る」と言い残した。一向に帰ってこない金玉を探しに来た弟子が,たまたま大沢の宿で 「金玉大沢山に殺害す主は鈴木甚八」という経文を聞き,その謎を解いて役人に訴えた。甚八は捕らえられ七北田刑場で処刑されたという。 盲人を祀ることから,参拝者は杖を奉納していく。(境内説明板 及び 「仙台泉の散歩手帖」の参照する泉市誌)

✽ 所在地:泉区大沢3丁目4

金玉神社入口

屋根付の五輪塔。金玉(きんぎょく)という名の南部の盲人の墓だとの伝説があります。はじめ国道4号沿いのヤマト運輸トラック基地を造成する以前の山中にあったものを 基地造成に伴い敷地南東端に移築。更にその後の区画整理に伴い,現在地に移設されました。

金玉神社

悪行は隠し通せません,鈴木甚八くん。金玉の執念でした。
この五輪塔はただ石を重ねただけのような造りですが,原始本来はこのようなものだったんでしょうね。 それにしてもかわいい感じです。HPで昔の写真を見ると,移築の度に鞘堂が立派になっていくようでもあります。 また,お墓がいつのまにか神社になっていくというのも不思議なものです。

422 八坂神社 Yasaka jinja
2014.05.06

勧請年月不祥。往古,大沢の久保屋敷の百姓源三郎の祖先源蔵伊勢参宮の砌り京都八坂神社にて霊験を頂き,同人の氏神として祀る。 元文3年(1738)3月28日大沢地区の鎮守として勧請し,台屋敷の修験喜明院が奉仕した。もと今宮牛頭天王と称したが明治元年(1868)八坂神社と改名。 大正5年(1916)木戸囲いにあった同村鎮守の春日神社を合祀。昭和20年(1945)8月大風で社殿倒壊,昭和24年(1949)再建。昭和55年(1980)10月社殿改築。
(宮城県神社庁HP,境内記念碑,泉区HPいずみ史跡今昔物語,同HPはっけん七北田)

✽ 所在地:泉区七北田字大沢丸山38,主祭神:素戔嗚尊,春日大神,例祭:旧3月15日

八坂神社遠景
八坂神社遠景。丸山という地名が示すこんもりとした山全体が鎮守の杜。急な階段が参道です
八坂神社鳥居扁額
鳥居扁額

八坂神社入口
八坂神社参道馬頭碑
参道かなり上方の中腹脇に並ぶ馬頭碑など。18基もあるそうです。ここに並べるのは大変だったでしょう

八坂神社

綺麗な社殿と綺麗な境内。社殿に向かって右側に石仏群が並べられています。

八坂神社石仏群
石仏群

石仏群は左から

勝軍地蔵碑 天保15年(1844),
出羽三山碑 文化15年(1818),
山神碑 文政3年(1820),同 天保15年,
古峯神社碑 明治30年(1897),
松尾観音碑 明治3年(1870)
並び順に脈絡はありませんね。

 

一番左(手前)の勝軍地蔵は鎧兜を付けて馬に跨る地蔵さま。悪行煩悩の軍に勝つ地蔵で,戦勝をもたらすとして鎌倉末期以降,武士に信仰されました。

鳥居の前の道は国道4号の旧道だそう。往古からの街道筋なので馬頭碑を始めとして石碑石仏がこんなに多いのでしょう。 かつて北仙台から東照宮,七北田を通り中新田まで走っていた仙台鉄道(別名「仙台軌道っこ」「軽便っこ」)もここを通っていました。 大沢にも「陸前大沢」という駅があったようです。今,国道から一歩入ったこの付近は喧騒から離れ,畑地が広がるのどかな地域です。

423 阿弥陀堂・永仁の碑 Amidado and Eininnohi
2014.05.06

八坂神社から南に500mほどにある。阿弥陀堂の由緒は不明だが,伝承では七北田の淨満寺が慶長以前はここで寺活動をしていたという。 堂前に板碑があり,大日如来を示す梵字と永仁2年(1294)と刻字されている。泉区で2番目に古い板碑である。(泉区HPいずみ史跡今昔物語,同HPはっけん七北田)

✽ 所在地:泉区七北田字大沢上前

阿弥陀堂入口
永仁の碑
永仁の碑

阿弥陀堂
阿弥陀堂
阿弥陀堂と永仁の碑
右奥に永仁の碑が見えます。阿弥陀堂の案内はありません

道路から少し上った所に並んでというより,二つがたまたま近くにあるといった感じ。碑は案内されないとただの石柱だと思ってしまいそう。700年以上ここに建っています。 因みに泉区で最も古い板碑は根白石字君が代にあり,弘安8年(1285)の刻字があるようです。仙台で最も古いのは澱不動尊にある文永10年(1273)のもの。