連坊・荒町

連坊・荒町地図

永正13年(1516)から慶長12年(1607)まで国分盛行,国分盛重,伊達政宗により再造営,復興された陸奥国分寺の門前に小路に沿って24の坊が置かれた。 これにより門前は連坊小路といわれるようになったという。藩政時代に足軽町となり、現在では商店街や学校が立ち並ぶが,裏町の寺院は当時の寺町の面影を残す。 荒町は田町から東に伸びる奥州街道に沿う要路に当たる。仙台開府の際,伊達家に従ってきた商人の町,所謂御譜代町の一つで麹の専売特権が与えられていた。 当初は南町の西端・本荒町に置かれたが,寛永4年(1627)からの城下第一次拡張以降,この地に移った。今も商店街を形成し賑わっている。

丸の内に竪三つ引き両 014 耕徳山栽松院 Saishoin
2006.05.13

裁松院山門

曹洞宗。伊達政宗の祖母,久保姫(栽松院)の牌寺。久保姫は政宗が岩出山に移った天正19年(1591)福島から白石館(泉区根白石)に隠棲し,4年後の文禄3年(1594)当地で亡くなった。 遺言により居住していた白石城内に寺を建て葬られたが,政宗仙台入府後の慶長6年(1601)城下に栽松院を創建して位牌を奉安した。本堂前には千体仏を納めた千仏閣があり,堂内に仙台の地名の起源となった千躰仏の一部を胎内仏とする仏像がある。境内に推定樹齢千年で「政宗公遺愛の樫」と案内される白樫がある。

✽ 所在地:若林区連坊1丁目3-18,本尊:釈迦牟尼仏

裁松院山門扁額
山門扁額

順に裁松院入口,入り口わきの標柱,千仏閣

標柱には裁松院位牌寺の標柱と華道の標柱があります。華道でも何か特筆すべきことがあるのかもしれません。千仏閣には仙台の名称の起源といわれる千躰佛(の一部)を胎内仏とする大きな仏像を中心に千体の小振りな仏像が納められているそうです。

千躰観音のお祭りが近く,奉納幕と赤い幟が出ています。

 

母が実家に帰り,多くの時期を祖母に養育された政宗にとって,栽松院は母に等しい大事な人だったのでしょうね。城下への栽松院牌寺建立に当たり,仙台城本丸から高くそびえる「遺愛の樫」を見出し,日々の遥拝の目印になるとして,その地を決めたといいます。

裁松院本堂扁額
本堂扁額
裁松院本堂
裁松院本堂

久我竜胆 五七桐016 喜雲山光寿院 Kojuin
2006.05.20

曹洞宗。輪王寺末。伊達政宗の祖母,久保姫(栽松院)が福島の信夫に天正7年(1579)慶昌院として開基。 天正末に伊達氏の移封に伴い名取の増田に移転,更に政宗が現在地に移した。この時に光寿院となる。 天保4年(1833)の大飢饉の餓死者を埋葬した供養碑があり,河原町の桃源院,北山の大法寺とともに仙台の三叢塚(くさむらづか)と呼ばれる。 観音堂は仙台三十三観音18番札所。

✽ 所在地:若林区新寺3丁目7-1,本尊:釈迦如来

光寿院山門
光寿院山門扁額
山門扁額
光寿院本堂扁額
本堂扁額

一見して料亭かと見紛う山門は3間1戸の幅広な棟門。


光寿院本堂
光寿院本堂
光寿院観音堂
光寿院観音堂 2007.02.10撮影

名取の増田にあった頃,政宗公がたまたま狩りで立ち寄り休息をした際に創建の由来を知って,仙台に呼び寄せました。観音堂には裁松院護持仏の聖観音を祀ります。そして本堂前は牡丹庭園。ちょうど牡丹のいい季節で綺麗でした。

久我竜胆 五七桐026 金秀山瑞雲寺 Zuiunji
2006.06.10

瑞雲寺本堂
堂々とした本堂

曹洞宗。米沢瑞雲院の末寺。文安元年(1444)に米沢で創建し,当時は瑞巌寺と称していた。伊達家に従い,岩出山を経て現在地に移転。 慶長11年(1606)政宗が松島の円福寺を瑞巌寺としたため,寺号を瑞雲寺とした。境内の観音堂の如意輪観世音は慈覚大師の作といわれ,安産祈願で知られる。仙台三十三観音21番札所。

✽ 所在地:若林区連坊2丁目1-10,本尊:釈迦牟尼仏

瑞雲寺山門
山門は白壁の清楚な薬医門
瑞雲寺観音堂
観音堂

観音堂は21番札所。 如意輪観音と安産祈願が直結しているのはここだけでしょうか


敷地が南北には長いのですが,東西の奥行きが狭いのがちょっと気の毒。今の堂宇や山門は新しそうなので,恐らく西面の道路建設による影響だと思います。岩出山から仙台に移ってきたのはいつなんでしょうか? 境内に幾つかの句碑もありました。


平成30年(2018)4月16日再訪

瑞雲寺山門
山門扁額 2018.4.16
瑞雲寺本堂扁額
本堂扁額 2018.4.16
瑞雲寺水かけ地蔵
水かけ地蔵 本堂向かって左にあるかわいい地蔵様

丸の内に竪三つ引き両 日蓮宗橘031 広潤山法運寺 Hounji
2006.06.24

日蓮宗。寛永14年(1637)2代藩主伊達忠宗が開基。政宗に殉じた仙台藩士の青木友重の弟,日悟は家を継ぐことを勧められたが既に出家していた。 この日悟のために法運寺が開かれたと言う。境内西側に四谷怪談のお岩さんを祀った於岩稲荷明神と浄行菩薩のお堂がある。

✽ 所在地:若林区連坊2丁目8-10,本尊:釈迦牟尼仏

法運寺本堂
法運寺山門2006
山門 2006年当時

於岩稲荷明神と浄行菩薩堂
於岩稲荷明神(左)と浄行菩薩堂(右)

於岩稲荷のお堂に貼られた説明板には「この世の男女の問題の解消に,また人気商売の繁栄に…」とあります。 更に由来として「幕末維新の頃,仙台の吾妻太夫という義太夫を志す者が,一生女性を持たないとお岩様に立願し,効あって出世を果たしたが, 誓いを忘れ女性を持つや芸が落ち人気も下がった。太夫は懺悔し,帰郷して当寺にお岩稲荷を祀りお詫び供養したと伝えられています」とありました。
また,菩薩堂の隅はにタワシが置いてあります。浄行菩薩は法華経の教えを伝えるためこの世に現れたといい,説明板に「体の悪いところ、例えば足の悪い人は浄行菩薩の足を、目が悪い人は目をタワシで洗うと楽になる」とありました。



平成26年(2014)11月22日再訪 山門が建て替えられていました。優美な四脚門です。

本堂扁額
本堂扁額
山門扁額
山門扁額
法運寺山門2014
法運寺山門2014

日蓮宗橘 032 心性山智遠寺 Chionji
2006.06.24

智遠寺本堂
本堂
智遠寺入口
智遠寺入口

日蓮宗。昭和35年(1960)に開かれた新しいお寺。南隣の法運寺と同じ日蓮宗で,何か繋がりがあるのかもしれませんね。

✽ 所在地:若林区連坊2丁目5-5


久我竜胆 五七桐033 五峰山松音寺 Shoonji
2006.06.24

松音寺入口
松音寺入口

曹洞宗。寛正年間(1460~66)に福島の国見町松ヶ蔵に11世持宗が創建。長享元年(1487)12世成宗の没後,13世尚宗が父成宗を開基とし菩提寺と定めた。永正11年(1514)尚宗も当寺に葬られた。天文17年(1548)14世稙宗の隠居に従い丸森に移転。永禄8年(1565)稙宗も没し当寺に葬られた。 慶長7年(1602)仙台開府に伴い現在の連坊小路小学校付近に移転。元和4年(1618)には政宗の五男宗綱(正室愛姫との次男)も当寺に葬られた。伊達家の庇護により全盛期には末寺が36にものぼった。昌伝庵(荒町),泰心院(南鍛冶町),輪王寺(北山)とともに仙台城下の曹洞宗四大寺。明治3年(1870)火災で全焼。廃寺の危機に当たり,末寺の長泉寺を併合して明治21年(1888)同寺の敷地に移転した。山門は三間一戸の薬医門。政宗が晩年をすごした若林城が一国一城令により廃止された際,その大手門を拝領した。度々の火災にも残り明治23年(1890)ここに移建された。境内に開基の成宗,中興開基の宗綱の墓がある。

✽ 所在地:若林区新寺4丁目6-28,本尊:釈迦如来坐像

松音寺参道
松音寺山門

入口から曲線を描いて長く続く参道。手入れの行き届いた緑のトンネルが心地よい。その先の山門はかつて若林城大手門であったという。武家屋敷のように白壁の塀が続く。白壁と豊かな緑のコントラストが美しい。

順に本堂,観音堂,放光堂,円月堂。

山門を入って正面に本堂,右手に観音堂があります。観音堂は仙台三十三観音23番札所。 本尊の如意輪観音は,現在宮城第二女子高となっている地にあった真言宗遍照寺にあったもので, 遍照寺廃寺に伴い明治22年(1889)松音寺に移されました。放光堂と円月堂は何のお堂なのかわかりません。


山門の手前右手に歴史のありそうな地蔵堂があります。赤子を抱いたお地蔵さんが祀られています。安保原安産子育て地蔵。そして市道を挟んで南側に古い墓地。中央突き当り,向かって左が開基成宗公,右が中興開基宗綱公のお墓。


平成26年(2014)11月22日再訪

松音寺山門2014
秋,もみじを敷き詰めた山門前
松音寺山門扁額
山門扁額
向かって左が開基成宗公,右が中興開基宗綱公のお墓。
向かって左が開基成宗公,右が中興開基宗綱公のお墓。

久我竜胆 五七桐038 福現山保壽寺 Hojuji
2006.07.08

曹洞宗。泉区七北田の洞雲寺の末寺で, はじめ洞雲寺の近くで闕泉竜院(けっせんりゅういん)として文安元年(1444)に開基。 伊達氏以前に付近を支配していた国分氏が創建。後に現在地の近く,現鉄道用地に移転し保壽寺と称した。国分氏の牌寺で,国分氏滅亡後も伊達氏が庇護した。 国分氏最後の領主彦九郎盛重は当時の境内に武器を埋めて鎮護の神とし,その上に杉を植え,そばに祠を建て大杉稲荷明神としたという。 明治19年(1886)東北線工事で寺地が削られ,本堂移転と同時に同じく線路に支障となった大杉稲荷も寺の境内に移転し大杉は伐採された。 本堂内には聖観音が祀られ,仙台三十三観音22番札所となっている。

✽ 所在地:若林区連坊小路108,本尊:釈迦牟尼仏

保壽寺本堂
保壽寺 大杉大明神
大杉大明神

今の地図を見ても鉄道によって移転させられたことが手に取るようにわかります。時代の流れの中で長年生き延びることの難しさでしょうか。 荒波を乗り越えて国分氏の菩提寺は生き続ける。

月影杏葉 徳川葵071 一向山常念寺 Jonenji
2006.09.09

常念寺

浄土宗。寛永2年(1625)開山。阿弥陀如来を本尊とし,天和3年(1683)常念仏を開いて念仏三昧の道場となった。 以来,北六番丁の清浄光院,榴岡の願行寺とともに,仙台三回向寺の一つ。 5月の13日から15日までの3日間,3つの寺が3年に1度ずつ交替で大回向を開き,大念仏供養が行われる。山門は宝永6年(1709)に4代綱村夫人仙姫(万寿院)の墓所がある市内小田原高松の万寿寺の本堂前の門として建造された。新坂通の大願寺と同様,明治11年万寿寺から購入移築された。一間一戸の向唐門。桟唐戸に夫人の実家稲葉氏の家紋「隅切角に三の字」が入っているのも大願寺と同じである。

✽ 所在地:若林区東九番丁141,院号:不断院,本尊:阿弥陀如来

本堂はお城のような2層建て。立派。文政4年(1821)薩摩藩の佐久間五郎左衛門の寄進によって建立されたとのこと(商工会議所HP「ぶらり仙台まちめぐり」)。一方で,山門は大願寺とはうって変わって華やかさはありません。質素。それにしても万寿寺は相当に困窮していたのでしょうね。ちょうど曇り空で,写真が白黒写真のようになってしまいました。質素さの表現を意図したものではありません。


平成27年(2015)3月28日再訪

常念寺本堂2015
常念寺山門の紋
山門の紋「隅切角に三の字」

山門の家紋は稲葉氏のもの。


本堂正面がガラス戸から木製扉になっています。本堂前に位牌塔でしょうか,新設されました。全体的に新しく明るく感じます。お天気のせい?

久我竜胆 五七桐072 天苗山皎林寺 Kyorinji
2006.09.09

曹洞宗。山号の読みは「てんみょう」。慶長19年(1624)開山。名取秀麗齋の末寺。 飛観音といわれる千手観音が祀られており,仙台三十三観音19番札所になっている。本堂は大正7年(1918)建立。

✽ 所在地:若林区荒町205,本尊:聖観世音菩薩

皎林寺山門
皎林寺山門扁額
山門扁額

山門前に仙台三十三観音の標柱があります。

皎林寺本堂
皎林寺本堂扁額
本堂扁額

皎林寺観音堂
観音堂と伊勢久治郎翁頌徳碑
皎林寺花塚
花塚 嘉永4年(1851)建立

各種参考資料ではこの観音堂に千手観音が安置されているとされていますが,H23刊の河北新報社「祈りの街」によれば本堂にあるとされていました。 観音堂前ではなく山門前に三十三観音の標柱があるので,後者の方が正解でしょうか。…とすると,ここには何が?

★飛観音伝説
延宝年間(1673~81)の頃,三百人町の惣右衛門という足軽宅に観音が突然現れ,近隣の人々の信仰を集めた。 続いて荒町の毘沙門堂に飛来,最後に皎林寺に落ち着いたという。


平成27年(2015)3月28日再訪

皎林寺入口
皎林寺入口

以前来た時は意識しませんでしたが,前回訪問時の写真で,観音堂の右に「伊勢久治郎翁頌徳碑」が写っています。 伊勢久治郎は明治から昭和にかけてレンガ工場や銀バスを経営した実業家です。銀バスは大正8年に開業した民間バス会社のバスの愛称。 昭和17年に仙台市に買収され市営バスとなりました。お墓も当寺にあるようですが,ここがそうでしょうか?

桔梗 丸の内に竪三つ引き両073 金光山満福寺 Mampukuji
2006.09.09

真言宗智山派。寛永20年(1643)隣接する毘沙門堂の別当寺として開山。藩政時代まで藩内真言宗の学頭住職地で藩内の宗務を執った。 明治20年(1887)鉄道開通により仙台駅構内から高福院を合祀。平成4年(1992)本堂新築。本堂正面に昭和60年建立の弘法大師像がある

✽ 所在地:若林区荒町206,本尊:阿弥陀如来

満福寺入口
満福寺入口
満福寺弘法大師像
満福寺弘法大師像

本堂前,向かって右に弘法大師像。すぐ南側に毘沙門堂があります。境内が毘沙門堂と繋がっていて,境がありません。


平成27年(2015)3月28日再訪

満福寺本堂
満福寺本堂扁額
本堂扁額

かつて満福寺には仙台東照宮とここだけに許された相撲の勧進興行がありました。 荒町の賑わいに思いが馳せられます。


満福寺日限地蔵
日限地蔵

毘沙門堂の裏手になる場所にある日限(ひきり)地蔵。仙台では満福寺だけにあった。例えば毎月○日というように,その日に限って祈願すれば願い事がかなうということのようです。(平成23年12月4日 河北新報夕刊「までぇに街いま」)

行者輪宝 074 毘沙門堂 Bishamondo
2006.09.09

「荒町の毘沙門さん」で知られ,荒町のほぼ中央にある。文永年間(1264~75)に平泉の藤原秀衡が運慶につくらせたという毘沙門天を祀る。藤原氏滅亡後,流転するが,北目城主の粟野氏が北目城(太白区八本松)に移し軍神とした。更に粟野氏を破った伊達政宗が寛永4年(1627)に現在地に仮堂を建て祀り,その後,政宗の遺言に従い,寛永20年(1643)に2代藩主忠宗が鞘堂を建てた。明治37年(1904)の火災で焼失するが大正5年(1916)再建。火災で毘沙門天像の表面は焼けただれている。仙台七福神の一つ。子育ての神さまとしても知られる。参道入り口に嘉永3年(1850)に建立され,迷子や尋ね人などに利用された「奇縁二天石」という石標がある。

✽ 所在地:若林区荒町206,本尊:毘沙門天像(運慶作・藤原秀衡守本尊)

入口は商店街の真ん中にあるお堂に相応しく目立っています。鳥居の左柱脇に奇縁二天石があるのですが,電柱の陰になってしまいました。

毘沙門堂山門
毘沙門堂本堂
本堂

毘沙門堂 子安観音堂と百八体毘沙門堂
子安観音堂と百八体毘沙門堂

山門は毘沙門堂より時代を下った江戸時代中期の建立と見られています。 屋根の側面に唐破風をつけており平唐門と言うのだそうです。一間一戸の薬医門。

 

本堂左(西側)には南北に並ぶ二つの小堂があります。手前が子安観音堂,奥が百八体毘沙門堂。ここにも毘沙門さんがありました。

 

地図では神社マークになっていますが,毘沙門天は仏教の四天王なのでどーなの? と思っていましたが,この本堂には「しめ縄」も掛けられており,参道の鳥居と合わせて,やっぱり神社です。隣に別当寺もあるし。



平成27年(2015)3月28日再訪

毘沙門堂参道2015
毘沙門堂参道2015
毘沙門堂鳥居扁額
鳥居扁額

鳥居の左並びに奇縁二天石が。右側面に「をしゆる方」,左側面に「たづぬる方」と刻まれていて,迷子や尋ね人の特徴等を書いて左側に貼り, それに心当たりのある人が右側にその旨を書いて貼るというように利用されました。


毘沙門堂本堂扁額
本堂扁額
毘沙門堂境内全景
毘沙門堂境内全景

075 法龍山佛眼寺 Butsugenji
2006.09.09

仏眼寺山門
仏眼寺山門扁額
山門扁額

日蓮正宗。嘉元3年(1305)に岩代・渡邑に日蓮正宗第3祖日目上人の弟子である日尊上人が開基。 仙台移転の当所は上染師町にあったが寛永13年(1636)に火事で焼け,現在地に移った。3代藩主綱宗の側室,椙原品(すぎはらしな)の墓がある。

✽ 所在地:若林区荒町35


皎林寺の飛観音に続いてこの寺には飛曼荼羅の伝説があります。国分町の檀家に預けてあった当寺の曼陀羅は正保4年(1647)に火事に遭ったが, 被害を逃れ仙台城二の丸の木に掛かっていた。火事を避けて飛んだといわれています。

仏眼寺入口
入口
仏眼寺 山門から本堂への参道
山門から本堂への参道

本堂は江戸時代に2度の火災にあった後に嘉永2年(1849)に再建されたもの。この年号は棟札により確認できるようです。仙台市登録文化財。 平成16年から境内伽藍の大規模改修が始められているようです。本堂,山門ともに新しそう。もう改修は終わったのかもしれませんね。


平成27年(2015)3月28日再訪

仏眼寺本堂2015
本堂2015

資料によっては康永2年(1343)伊達6世基宗が伊達郡佐々木邑に建立とか,信夫郡笹木野村だとか, 祈祷で政宗の病気を治した功で米沢に呼ばれて以後岩出山を経て仙台に移った,とか色々あります。が,当HP記載の創建由緒はお寺に掲示されていた改修に向けた「趣意書」によりました。 仙台移転を延宝2年(1674)とするHPも見つけましたが,飛曼荼羅の火事の年代より後のはずないし…。 どうも分けわかりませんが,学者でもないので,これ以上の調査はしません。


平成30年(2018)5月21日再訪

仏眼寺椙原品の墓
椙原品の墓(中央)

3代綱宗の側室,椙原品(すぎはら しな)の墓を探して仏眼寺に行ってきました。俗に「仙台高尾」とも称される人です。本堂を右に回り込んだ所に発見(写真中央)。そして,品とはどのような人だったのかについて森鴎外の文を見つけたのでそれも。大文豪の文章を,青空文庫であることをいいことに,勝手に抜粋,順序入れ替えしています。ごめんなさい。

 

仏眼寺の墓の主は何人(なんぴと)かと云うに,これは綱宗の妾(しょう)品(しな)と云う女で,品は吉原にいた女でもなければ,高尾でもない。

品は一体どんな女であったか。

綱宗は凡庸人ではない。和歌を善くし,筆札を善くし,絵画を善くした。十九歳で家督をして,六十二万石の大名たることわずかに二年。二十一歳の時,蟄居の身となった。綱宗の芸能は書画や和歌ばかりではない。蒔絵を造り,陶器を作り,又刀剣をも鍛えた。私は此人が政治の上に発揮することの出来なかった精力を,芸術の方面に傾注したのを面白く思う。面白いのはこゝにとゞまらない。綱宗は籠居のために意気を挫かれずにいた。品川の屋敷の障子に,当時まだ珍しかった硝子板四百余枚を嵌めさせたが,その大きいのは一枚七十両で買ったと云うことである。その豪邁の気性が想い遣られるではないか。こう云う人物の綱宗に仕えて,其晩年に至るまで愛せられていた品と云う女も,恐らくは尋常の女ではなかっただろう。

品の家世はどうであるか。播磨の赤松家の一族に,椙原伊賀守賢盛と云う人があった。椙原を名告(なの)ったのは,住んでいた播磨の土地の名に本づいたのである。後裔に新左衛門守範と云う人があった。守範は赤松氏が関が原の役に大阪に与(くみ)し,亡びた時に浪人になって江戸に出て,明暦三年の大火に怪我をして死んだ。品は守範が流浪した後,年が寄ってから出来た女(むすめ)であろう。品を生んだ守範の妻は,麻布の盛泰寺の日道と云う日蓮宗の僧の女(むすめ)であった。守範の死んだ時には,十九歳になる品が一人残って,盛泰寺に引き取られた。

それから中一年置いて,万治二年に品は浜屋敷の女中に抱えられて,間もなく妾になった。綱宗は不行迹の廉を以て,万治三年七月十三日に逼塞を命ぜられて,芝浜の屋敷から品川に遷った。芝浜の屋敷は今の新橋停車場の真ん中程であったそうである。

綱宗が品川の屋敷に遷った時,品は附いて往って,綱宗に請うて一日の暇を得て,日道を始め,親戚故旧を会して馳走し,永の訣別をした。これは一切の係累を絶って,不幸なる綱宗に一身を捧げようと云う趣意であった。綱宗もそれを喜んで,品に雪薄(ゆきすゝき)の紋を遣った。

品川の屋敷と云うのは,品川の南大井村にあった手狭な家を,寺や百姓家を取り払わせて建て拡げたのである。綱宗は家老一人を附けられて,そこに住んだ。

綱宗は品川の屋敷に蟄居して以来,仙台へは往かずに,天和三年に四十四歳で剃髪して嘉心と号し,正徳元年六月六日に七十二歳で歿した。

品は初一念を翻さずに,とうとう二十で情交を結んだ綱宗が七十二の翁になって歿するまで,忠実に仕えて,綱宗が歿した時尼になって,浄休院と呼ばれ,仙台に往って享保元年に七十八歳で死んだ。

私は豪邁の気性を以て不幸の境遇に耐えていた嘉心を慰めた品を,たゞ誠実であったのみでなく,気骨のある女丈夫であったように想像する

品は晩年女(むすめ)石を養女にして,人に嫁がせた。品の亡くなった跡を,その二男常之助が立てることになった。椙原氏は此椙原常之助から出ているのである。

(大正五年、東京日日新聞・大阪毎日新聞)

080 奕葉山昌傳庵 Shodenan
2006.09.10

昌伝庵山門
昌伝庵山門扁額
山門扁額

曹洞宗。山号読みは「えきよう」。永正3年(1506)伊達家13世尚宗が三男久松丸の菩提を弔うために米沢に創建。 天文8年(1539)8歳で逝去した14世稙宗の四男玄蕃丸も葬られた。その後,政宗に従い天正19年(1591)岩出山を経て,慶長7年(1602)仙台の当地に移る。松音寺(連坊),泰心院(南鍛冶町),輪王寺(北山)と共に仙台城下の曹洞宗四大寺のひとつ。 開基久松丸,初代藩主政宗公,5代吉村公,6代宗村公の位牌を祀る。仙台四大画家のひとり、東東洋(あずまとうよう)の墓がある。


✽ 所在地:若林区荒町56,本尊:釈迦牟尼仏

ここも新しそうな山門です。平成11年築。更に参道を進むと本堂前に内門があります。

順に内門,本堂,冷泉家24代当主夫人の草木供養の和歌碑

和歌碑がなぜここにあるのかは,わかりません。春は花 秋は実りとみ佛の 恵みに生ふる 野へのくさ木は

昌伝庵は創建地の米沢に今もあります。岩出山移転は移転というより分家みたいなものでしょうか。どっちが本家?という問いかけは無意味ですね。 この米沢の昌伝庵HPでは創建年次を永正5年(1508)としています。また,山号の読みを「えきしょうざん」とするものもあります。

東六条八つ藤 八つ葉牡丹 三つ星115 仏法山東漸寺 Tozenji
2007.03.03

東漸寺山門

浄土真宗大谷派。慶長5年(1600)に利府に開山。その後,市内霞目を経て慶長19年(1614)に南鍛冶町。寛文事件で伊達家を支えた金子元継を初代とする金子家の菩提寺。 元継は2代藩主伊達忠宗,3代綱宗,4代綱村の3代に仕え天保元年没。金子家は2代横綱谷風の生家でもあり,境内に谷風の石碑がある。

✽ 所在地:若林区元茶畑10-16,本尊:阿弥陀如来


平成15年(2003)より都市計画道路工事により南鍛冶町から東北線北側に移転中。本堂や山門などはもう移転完了ですね。新しく立派になりました。

東漸寺本堂
東漸寺本堂2007
東漸寺本堂扁額
本堂扁額 2018.4.16
東漸寺 谷風と金子家の石碑
谷風と金子家の石碑

谷風碑は昭和27年(1952)に谷風顕彰会が建立したもの。今回の移転を機に仲良く並んだ? 仙台移転当初に立地した霞目には谷風の墓石があります。



谷風の墓(霞目)
谷風の墓(霞目)2013.5.12撮影

二代目 谷風梶之助
寛延3年(1750)8月8日宮城郡霞目村に金子弥右衛門の三男として生まれた。その怪力振りを見出され,明和6年(1769)伊達関森右衛門の名で初土俵を踏んだ後,安永5年(1776)には郷土の名力士初代谷風の名を継承する。身長6尺2寸5分(約190cm),体重47貫(約176kg)の巨漢で,天明元年(1781)には大関に昇進し,63連勝を記録している。寛政元年(1789)には横綱を免許され,相撲界の中心として活躍した。寛政7年(1795)正月,現役のまま46歳で死去した。昭和17年(1942)霞目飛行場の拡張工事のため,その遺骨は金子家の菩提寺である東漸寺に改葬され,墓石は現在地に移されている。現在,谷風の碑が東漸寺に,銅像が勾当台公園に設置されている。(現地説明板)

116 三宝大荒神社 Sanpodaiko jinja
2007.03.03

三宝大荒神社

城下拡張に伴い元鍛冶町から移転した南鍛冶町の鍛冶職人たちが元和年間(1615~23)に勧請。御神体は一度も御開帳をしたことがないという。 かつて成田町にあった修験の花京院(城下に再建,その後廃寺)が焼失した際,御神体は救われ当神社に納められたが, これを御開帳すると町に変事が起こると言われるためという。

✽ 所在地:若林区南鍛冶町41-1,主祭神:三宝荒神,例祭:6月19日

三宝荒神は,仏・法・僧の三宝を守護するという神。不浄や災難を除去する神であるため,火と竈(かまど)の神とされています。 だから鍛冶職人の信仰の対象となったんですね。

順に鳥居,境内社の耳権現,境内石仏群

耳権現は弘安4年(1281)の元寇の時,国家安泰を願った地元僧が自身の耳を切って埋めたのを讃え,正応3年(1290)に建てられた石塔を祀る。耳の病に効能があるという。


平成27年(2015)3月28日再訪

三宝大荒神社 ご神木のイチョウ
ご神木のイチョウ
鳥居扁額と社殿扁額
鳥居扁額と社殿扁額

社殿扁額は何て書いてあるのか読めません。

ご神木は樹齢約320年(って何時から?),樹高21mのイチョウ。市の保存樹木。雄木にもかかわらず実をつけ大変不思議がられましたが,後に雄株に雌株を接木したことがわかったというオチがあります。高いです。黄葉時,いやせめて葉を付けた時に撮るべきでした。


久我竜胆 五七桐117 三陽山泰心院 Taishinin
2007.03.03

泰心院山門
泰心院山門 2015.3.28撮影

曹洞宗。輪王寺の末寺。伊達14世稙宗夫人(台心院)の菩提を弔い15世晴宗が永禄10年(1567)に米沢に建立。 政宗と共に岩出山を経て慶長12年(1607)現在地に。寺号は「台+心=怠」という政宗の指摘で「泰」に改めた。昌伝庵(荒町),松音寺(連坊),輪王寺(北山)と共に仙台城下の曹洞宗四大寺のひとつ。山門は旧伊達藩藩校の養賢堂の正門で文化14年(1817)の建築。明治維新の時に移築された。

✽ 所在地:若林区南鍛冶町100,本尊:釈迦牟尼仏

 

山門は超立派。屋根が荘厳重厚な四脚門です。藩校への力の入れ方が伝わるような。養賢堂跡は県庁となりましたが,残っていた講堂も戦災で焼失してしまったので, この門が唯一残った養賢堂の遺構です。仙台市指定文化財。

泰心院本堂
泰心院本堂

本堂は享保12年(1727),明和元年(1764)の大火と大正12年(1923)の火事で3回焼失しています。RC造で再建されています。

泰心院 傘松
傘松

傘松は4代藩主伊達綱宗の寄進で,元禄年中に仙台城から移植したともいわれている。かつて保存樹木だったが枯れたため指定解除されたそうです。



平成27年(2015)3月28日再訪

泰心院遠景

まさに威容と言っていい山門。遠くからでも凄い存在感です。

泰心院山門扁額
山門扁額 養賢堂の ではなく泰心院の扁額
泰心院本堂扁額
本堂扁額

以下,現地説明板の写しです。
この門は,勾当台にあった仙台藩藩校養賢堂の正門で,養賢堂が明治維新後県庁舎にあてられた際,正門が洋風門に置き換えられたため,現在地に移された。 一間一戸の四脚門で,屋根は切妻造,桟瓦葺で,伊達家の家紋「三引両」と「九曜」を配した漆喰塗の棟や細部の装飾など重厚な外観となっている。 藩校は,江戸時代に諸藩が藩の子弟を教育するために設けた学校で,仙台藩では元文元年(1736)に開設された学問所を前身とし,安永元年(1772)に養賢堂と称せられるようになった。 この門は,文化14年(1817)に講堂が完成した際に建立されたものであるが,講堂他の諸建築が戦災で焼失したため,養賢堂の唯一の遺構となった。